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COLUMN食旅紀行

松崎の川のりを味わい感じた人間味

 

高知県四万十川の初春の風物詩といえば、川海苔の収穫風景だ。

四万十には、数々の日本一を誇る特産物がある。特に鰻や鮎はよく知られているが、「四万十川の川海苔」もその一つに数えられる。「四万十川の川海苔」は、焼きそばやお好み焼きに振り掛ける、あの青海苔の仲間だ。

 

かつて、僕は、鮎やゴリ、鰻や川海苔といった、四万十川の河川漁を視察するためにこの地へ足を運んだことがある。「過疎化」について論議されるようになって久しいが、四万十川流域においてもご多分に漏れず、過疎化は深刻な問題となっていた。過疎化は農業や漁業といった地域産業の担い手の減少をもたらすことを意味するが、そればかりでなく産業の形態をも変えてしまう。

現在この四万十川で行われている主たる漁は、鮎と川海苔の二種で、しかも鮎の水揚げの多くは放流魚であり、川海苔にいたっては養殖に頼っているのが現状だ。

 

四万十川は、かつて天然資源に恵まれ、ゴリの「がらびき漁」やウナギの「石ぐろ漁」といった特徴ある伝統漁法が行われていた。

「がらびき漁」の「がら」とは貝殻のことで、サザエやアワビといった貝殻を取り付けたロープを川底で引いて音を立て、ハゼの仲間の「ゴリ」を驚かして網に追い込むという漁だ。「石ぐろ漁」とは、石を川辺に積み上げてその周囲を網でぐるりと囲み、ウナギを誘い込んで捕るという手法。どちらもユニークだが、他にも「投網漁」や「柴漬漁」、「火振り漁」などがある。

もちろん、伝統漁法が完全に消え去ってしまった訳ではないが、伝統漁法も後継者となる担い手や、多種多様な資源がなくては存続できない。

 

また、社会変化に伴う人々の食生活の変化も、地場産業の在り方に影響を与える。早くて手軽で食べ易いという時代の要請は、結果的には地域産業の多種多様性を失わせる。食材には加工性や均一性といったものが優先して求められ、管理や加工、流通のしやすさが選択され、そして消費者が好むものばかりが、栽培され、養殖され、加工される。生物多様性の問題と同様の問題が、地場産業でも加速度的に進みつつあるのが現状だろう。

過疎化とは都市化の対極にある。都市化は、多種多様な食文化の均一化を進める。それは何も東京や大阪といった大都市に限らず、地方都市においても同じだ。かつては地域それぞれに個性をもっていたはずの「食」は、金太郎飴のようにどこでも同じ品質、同じ味となり、スーパーやデパートに並べられ、全国チェーンの飲食店で食される。そして、全国共通の味わいが共有され、やがて全国共通の食文化が形成される。

 

味覚は個々人が育つ環境下で、食事の体験を積み重ねることによって発達する。本来ならば味覚は、十人十色の筈である。経験によって学ばれた味覚は、多様な味覚に基づいて、多様な食文化を生むはずだろう。しかし、本来豊かであった食文化の下ではなく、こうした現状の中で人間が育てば、全国共通の味覚や感覚をもった人間が育つことになってしまう。それは個性のない人間が育っていくことにも繋がるし、さらに言えば、食をめぐる生物の多様性の喪失と同じことが、人々においても生じることになるかもしれない。

 

「人間味」を辞書で引くと、「温かみのある人柄」」と書かれている。僕は、「温かみ」とは、どのように育つのかと考える。

それは、個々人の食を含めた多様な経験を通じて、それぞれに学ぶことによって形作られるはずだろうし、それは多分、均一な文化の下では育たないのでは僕には思われてならない。そして「人間」は「人と人の間」と書き、「食」という字は、「人を良くする」と書くことを踏まえれば、人は多様な人々の間で「食」の経験を積み重ることによって「良く」成長するのではないかと考える。

だから、全国で同じような食体験が繰り返され、人々が同じ味覚を獲得することについては、料理することを天職としている僕にとって、とても気掛かりなことなのだ。

 

僕は全国各地の生産現場に出掛ける。どの地方においても高知県と同様に生産物は絞りこまれ、そればかりが増産されている。そして、後継者不足にも悩まされている。これが現状である。

 

経験豊富で技術に優れた職人は、様々な食材を扱い料理する。彼らが、地方の多種多様な食材を用いれば、きっと出来上がる料理は、季節感のある「生産地の個性」が溢れたものになるだろう。そして、どこででも入手可能な食材を扱えば、その「職人の個性」が発揮された独創的な料理を作ることができるだろう。

 

職人の個性が発揮された料理は、事細かく指示されたレシピさえあれば、概ね誰にでも再現が可能だ。つまりそれは、熟達した料理人を必要としないことを意味する。かつては、多種多様な食材を料理することを通じて、料理人は技を覚えて磨き、熟練者となったのだ。誰にでもできることと、熟練した職人がいること。果たしてどちらが良いのだろうか。どちらも重要だと思うが、やはりどちらか一方に傾いていく未来になって欲しくないと僕は願ってやまない。

 

* * *

 

話が脱線してしまった…。

僕は、神奈川県に隣接する静岡県産の食材を好んで使う。その理由は、静岡県の地形にある。空気が清らかで、高低差のある山々が入り混じり、刻まれた谷には山から流出した豊富な養分を含んだ水が流れ込んで河川となる。それらの河川はやがて伊豆半島の相模湾と西伊豆以南の駿河湾へと注ぎ込む。僕は、静岡県のそうした環境がとても気に入っている。

 

先日、山葵の生産農家の方と会い、話を伺った。

「山葵栽培で使う農薬や肥料はどの様なものを使うのですか」と僕が質問を投げたら、その方は少し間をおかれてから「 山葵栽培には農薬も肥料もどちらも使いません。 理由は常に水が流れる環境下での栽培なので…」と実にシンプルに答えられた。言われてみれば全くその通りだった。

ついで「国内で良い環境にある山葵の生産地は何処ですか」と問うと、シワが刻まれたその顔からシワが消えるような引き締まった面持ちで「静岡県の天城」ですと、きっぱり言い切られた。その理由は、山葵は水が全てだからだ。水が運ぶ養分や微生物を栄養源として育つため、良質な水質が常に求められる。天城地区は環境が良く、水質も良いため、耕作されているわさび田の面積は他と比べて群を抜いている。

彼が述べるように、静岡県には、十数の河川、特に天竜川、大井川、富士川、伊豆天城山の狩野川が流れ、そして富士山からの地下水が湧く。静岡県は、正に「水の国」と言っていい程で、しかも水は良質だから、良い作物が育つのだ。

 

この県の地形には、他にも特徴的なことがある。

それは、この県がバランス良く東西南北に広がっていることと、海と山とに等しく接していることだ。しかも海は、湖、湾、岬、半島、灘という複雑な地形と接し、内陸部では、高山、山脈、平野、高原台地と、平地と複雑に入り組んでいるから、非常に地形が富んでいるのだ。隣接県という好立地もあり、そしてこのような優れた地形を有することから、僕は好んでこの地の産物を使うのだ。

 

といいつつも、静岡県においてもやはり農・水・畜産の現状は、高知県や他県と等しく困難であるのが実態だ。廃業して打ち捨てられた酪農地や農業地、果樹園や茶園は数多く、また打ち切りとなった漁労もある。

 

* * *

 

そんな中で、未だ頑張って郷土の味を守ろうと奮闘する町がある。それは、伊豆半島の南西部の海岸沿いに位置する、人口約7,600人の町、松崎町だ。松崎町の特産物と言えば「桜餅」。原料の桜葉の塩漬けは、全国生産量の7割をも占めている。

 

桜の塩漬けで有名なこの町だが、「川のり」も素晴らしい特産物だ。元医師である人物が一念発起して環境保護と共に、天然のりと養殖のりの育て始めたのが発端だ。今では町の特産物にまで成長した。伊豆の海苔といえば、「磯海苔」と「はば海苔」だが、規模も知名度もさほどないものの、品質にかけては四万十の川海苔に引けをとらない。収穫期は例年大体1月から3月頃で、松崎町を流れる那賀川と岩科川が合流した河口で収穫する。特に1月から2月初旬にかけての「一番芽」が、色、香り、食味、食感のどれをとっても、最も素晴らしい。

 

 

この天然川海苔を味わいに、僕は現地へ視察に行った。僕が見た実際の川海苔は、見た目も香りも海藻そのものだった。味もやはり海藻…。この全くの「藻」の状態にあるものが、どうやったら僕が期待する「川のり」となるのか、その時僕は全く分からなくて、正直に言ってしまえば、四万十の足元にも及ばないものだとがっかりしたのだ。

しかし、その川海苔がひとたび乾燥庫に入ると、香りを放ち始める。僕が案内された乾燥庫は、本当に素晴らしい川海苔の香りで充満していたのだ。今一度疑問が湧いた。さっきまでは全く川海苔を感じることはなかったのに、一体何故なのだろうかと。

 

 

磯海苔もそうだが、海苔というものは、乾燥させることによって香りが立つとのことだった。椎茸みたいな感じかなと一瞬思ったが、しかし椎茸はどちらかと言えば「香り」よりも「味」が深まる。では何だろうかと思い当たったのが、ポルチーニ茸だった。そうだポルチーニ茸にそっくりだ!生の状態では本領を発揮せず、乾燥することで香りが立って、その本領を発揮するのだ。そうだ間違いなくポルチーニだ。…否、川海苔だ。…否、青のりだ。

 

僕の頭は混乱して何が何やらの状態になってきたが、海苔とはポルチーニ風にして料理すれば美味しくなるはず…と、僕はそう理解した。だからこそ、寿司屋では炭火で海苔を一々炙って香りを引き出しているのだ。けっして焼いているのではない。残っている水分を一瞬で蒸発させることによって、香りを思いっきり立たせていたのだ。僕はポルチーニ茸を引き合いにして、ようやくすっかりと海苔について理解したのだった。本当に大満足だ。

しかし、海苔は僕が思うほどには甘くなかった。恐らく、この川海苔を本当に理解して、最高の料理を出せるようになるには、十年の歳月が必要かもしれない。

 

 

様々な地域を巡って、僕は身にしみてと感じ入ることがある。

 

世の中には、絶対に諦めない不屈の精神を持ちながらも、ロマンをもって事に当たり、その地の伝統を守り、継承する人々がいるということだ。僕はこういう人々こそ「人間味」のある人物だと、そう考える。そして、料理は「人間味」というエッセンスが加わった「味」を味わう素晴らしいものに他ならない。