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COLUMN食旅紀行

市原平衛門商店のお箸

 

フランス料理に箸…。必要か否か…。

必要ではない。…とそう思う。

しかし、「市原平衛門商店」の箸となれば話は変わってくる。市原平兵衞商店は、江戸期から250年も連綿と続く、京都の老舗箸専門店だ。この老舗店の作る箸で食事をすると、料理が殊更美味しく感じるのだ。

 

この箸を愛用するようになったのは、今から18年程前のこと。僕の結婚披露宴が京都で執り行われた時に、この箸と巡り合った。

 

妻は広島県出身の人間、僕は横浜出身だ。僕らが知り合ったのは、フランスはブルゴーニュ地方のディジョンという都市。僕はそこで、フランス料理の修行を積んでいて、妻は語学勉強のために滞仏していた。僕らは、思い掛けないきっかけで出会い、そして交際が始まった。些細なことから始まった交際だったが、修行の身だった当時は、僕は正直なところ結婚にまで至るとは想像すらしていなかった。

 

そんな僕だったが、帰国してから数カ月後には、彼女との結婚の承諾を両親から得るために、広島の彼女の実家を訪ねていた。

当初は「お嬢さんを僕に下さい」と男らしくきっぱりと申し込むつもりだった。しかし岳父は、そんな僕より先んじて「娘をよろしくな」と。僕はただ神妙に「はい」と言うしかなかった。この晴れ舞台で、大事な台詞を言いそびれたばかりに、今でも「あんたは、気合が足らない」と家内から責められている。

 

気合が足りないそんな僕だったが、彼女との結婚式をどこで挙げるかについては真剣に考えた。しかし、その答えはあっさりと出てしまった。というのも、結婚式は京都で挙げると、僕は彼女と知り合う以前から決めていたからだった。また京都という地は、僕らにとっても都合が良かった。広島と横浜の丁度中間点だったからだ。双方の親からも、京都で式を執り行うことについては、なんの異論も持ち上がらなかった。僕は式を料亭で挙げるとはっきりと決めていたから、後は料亭を選ぶだけだった。

 

京都の料亭で挙式することを決めた僕らは、京都へと赴き、料亭探索に出掛けた。目星を付けた料亭で食事をし、僕らはその場で直ぐに決定した。早速店の方に相談してみると、快くその場で引き受けて貰い、僕らは予定通りに料亭で婚礼の儀を済ませることが出来た。

 

* * *

 

式の当日、僕の心を奪ったものがあった。それは、宴会の膳に出されていた、「箸」だった。宴会の料理はどれも美味しく満足していたが、この箸で頂くと料理が殊更美味しく感じるのだ。「箸で料理の味が変わる」、そんな思い掛けない発見に、この晴れ舞台の最中、僕は驚かされていた。

 

翌日、僕は早速その箸を作る店へと足を運んだ。昨夜の興奮を、店の方にそのまま伝えてみると「そうですか、それは嬉しいお話をありがとうございます。どうぞ、お気に入りのお箸を見つけていって下さい」とはんなりとした口調で仰言った。

興奮したままの僕は、店内の商品を隈なく手に取って調べ上げた。気に入った箸が三膳見つかったが、その中で僕が特に気に入った箸があった。それは「平安箸」という商品で、見るからに気品が漂っていた。眺めているだけでも料理を摘む光景が目の前に浮かんできて、見事なまでに美味しそうな感じがする箸だった。後になって知ったが、この店では歴代の当主がそれぞれ、必ず一品は独自の箸を創作するという家訓があるというのだ。僕が気に入った箸は八代目の手によって創りだされたものだった。

 

この箸の最も優れている特徴は、口に料理を運んだ時に、唇に触れる感覚が生じない程にその存在感を感じさせないことにある。唇に触れる感覚が小さければ小さいほど、食べ物の口当たりを直に感じられて、料理をより美味しく味わえるのだ。この箸を使うと、食物以外のものが触れる感覚がしないから、気が付くと食べ物が口の中に入っているという感じがする。極薄いグラスでワインやビールを飲む時の感覚に近いと言えば理解されると思う。

 

フランス料理の場合、フォークやスプーンを使って料理を口にするが、どうしても金属の硬い感触が、料理の味にまとわりついてしまう。だからといって、僕はそうしたシルバーを否定する訳ではない。シルバーを用いて食べた方が美味しく感じる料理は山程あるからだ。しかし、たとえフランス料理であっても、市原平衛門商店の「平安箸」ならば、料理を美味しくするのは間違いないはずだ。

 

そんな僕の勝手な判断で、店では「平安箸」をテーブルに並べている。僕は料理を盛り付ける際にも、この箸を愛用している。この箸で盛り付けると、料理がより美しく、より美味しそうに映る感じがするのは、きっと僕だけではないはずだ。