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COLUMN食旅紀行

三重の地鶏作りと愛知の蜂蜜

 

「高校生レストラン」は2011年に放映されたテレビドラマだが、舞台となった三重県多気町は放映とともに全国的によく知られるようになった。僕はこの原作本の出版祝賀会に出席したが、思い返してみると県内に足を踏み入れたのはこれが最初で、その後は贔屓にしている雉肉の仕入先への訪問だけだから、これまでは当地とは縁が薄かった。



そんな僕が、再度足を運ぶことになったのは、フランス料理に合う 鶏肉が、見つからずに 悩んでいた頃、三重の熊野地区で30年ほど前から、雉肉に代わる地鶏の研究をしているとう噂を耳にしたからだった。しかし当初は、食肉の研究や開発は全国各地で行われているから、多少は興味を覚えたものの、気に留めるというまでには至らなかった。



丁度その頃、僕が心惹かれた蜂蜜があった。「福来蜜(ふくらみつ)」という蜂蜜で、偶々僕が読んでいた本に載っていた。福来蜜は、「クロガネモチ」の花の蜜をミツバチが集めたものだ。クロガネモチは関東より以南に自生する常緑樹。この樹には福が来るという言い伝えもあり、「福来(ふくら)木」とも呼ばれ、縁起の良い樹として庭木として人気がある。また、都市環境下にも強いことから街路樹や公園樹としてもよく植えられている。5、6月の頃には淡い紫色の花を咲かせ、秋になると真っ赤な実をたわわに実らせる。この花から実に美味しい蜜がとれるというのだ。「福来蜜」は、この樹の別称「福来木」に由来する。「福来蜜」の産地は、愛知県一宮市だと本は教えてくれた。


僕はこの二つの産物に思いを馳せているうち、地鶏は三重県、蜂蜜は愛知県、ならば同じ中部地方、それなら一挙に見て回れるぞと閃いて、俄然旅に出ることに決めた。



僕は早速計画をざっくりと立ててみた。仕事を終えた夜分に横浜を出発、熊野への中継地として松坂あたりで一泊。そして翌朝6時に松坂を出発して、9時頃熊野に到着。熊野視察を2時間、11時頃熊野を発ち、昼食を食べながら一宮へ向かえば15時頃には、蜂蜜の現場に到着する。視察後すぐに車を出せば、22時には横浜に戻れる。これなら、翌日の営業に差し支えることはない。完璧な計画に我ながらうっとりして、視察よりもこの計画自体に喜びを感じた僕だったが、でもやはり実行に移される日を心待ちにした。



ところが、その日が近づいたある日、突然僕はある大地な事に気が付いてしまった。出発の当日に僕自身が横浜にいない…と。スケジュール帳を確認しても、やはり僕は別の予定で他所にいるのだった。

スタッフに一々面倒な応答をするのが嫌だった僕は、何気ない振りを装って「松坂で落ち合おうな」などと、土壇場になって彼らに告げてみた。しかし、やっぱり何か気付いた様子で「え!いないんですか…」と。僕は平然と「そうだよ」と何事もないような平然と答えておいた。スタッフらはすっかり観念して、僕抜きでの出発に…なった。



当日松坂へと一人で向かったが、先に到着したのは僕だった。予定時刻から2時間程過ぎた頃、部屋にいた僕の携帯電話にやっと宿に到着したと彼らから連絡が入った。出迎えた僕が「遅かったねぇ」と聞くと、途中二度の交通渋滞に巻き込まれて遅くなったと報告した。そんな返答を、僕は「へぇ」とあっさり聞き流した。彼らが到着した頃には、僕はすでに湯船にも浸かって寛ぎ、もう後は寝るだけといった状態だったからだ。「そんな事より明日は5時50分にロビー待ち合わせで」と、スケジュールを確認し合って、「とにかく明日は早い出発だし、今日はもう遅いからさっさと寝よう」と彼らを追い立てた。彼らは悪魔でも見るような目をして僕を一瞥すると、疲れた身体を引きずって布団の中へと入っていくのだった。僕はそのままスヤスヤと深い眠りについたが、どうやら彼らは風呂と翌日の準備で遅くまで起きていたようだった。



彼らが十分に眠らなかったことは、翌日の車内ですぐに明らかになった。僕がハンドルを握ると同時に、彼らは安眠の世界へと誘い込まれていたからだ。僕はそうはさせまいと、意味のない質問を次から次へと投げかけて、彼らに答えさせては眠りの園から引き戻すのだった。そんな馬鹿げたことをしているうちに、車は無事に熊野に。予定より一時間早い到着だった。


視察に同行して下さる方に電話を入れると、僕らは早速事務所へと案内され、熊野地鶏の開発に至った経緯や、現在の養鶏状況などについて、話を伺うことができた。その方の話ぶりは、自信と誇りが漲っていたが、それもそのはずで、最近その地鶏が三重県推奨の県鶏になり、しかも三重県初の地鶏として全国展開するとのことだった。



僕らは鶏舎へと車で向かった。最近は、鶏舎(豚舎や牛舎も)から、かなり離れた場所に車の除染所が設置され、敷地内に入る度に除染することになっている。僕らの車も除染所を通り抜けてからしばらく車を走らせて、ようやく鶏舎前に到着した。滅菌服の着用を勧められ、僕は珍しく素直にその指示に従ってその白装束を纏い、最後に靴をすっぽりとビニール製のもので覆って、鶏舎に入る体制を完全に整えた。そして、ようやく鶏舎内へと通された。



面会した飼育係の方が舎内を案内しながら、飼育に関する様々なことを話して下さった。熊野地鶏が育つ環境や習慣、特徴、また初めて飼育した時のことや失敗談、功を奏した話など、それは実に丁寧で多岐にわたっていた。

小春日和で、見上げる空はどこまでも高く、遠くに目をやると、六分咲きの山桜が山並みに所々浮かんでいた。そんなゆったりとした景色と時間の中で育つ地鶏たちは、驚くほどに人懐っこい。僕らが鶏舎に入ってしばらくすると、怯えることなくちょこちょこと近づいてくる。こんな体験を僕は今までしたことがなかった。やはり飼育環境と育てる人によって、育ち方は良くも悪くもなるのだ。僕はこの養鶏場から、日々ひたむきに積み重ねることが、如何に尊く、如何に素晴らしい結果をもたらすかということに改めて気付かされ、つくづくと感じ入った。



鶏舎を出ると、僕らを最初に出迎えてくれた方が、「丸山千枚田」へと案内してくれた。紀和町にあるこの千枚田は全国的にも知られた棚田だが、山の斜面に幾重にも小さな田が折り重なっている。山頂から見下ろすと、視界いっぱいに美しい田園風景が広がる。その昔、車も車道もない時代には、この棚田の米と海産物を物々交換して暮らしていたという。



僕はこの話を伺い、なぜか切ない気持ちになる。僕らの目に美々しく映る景色は、観光目的の景色ではなく、かつては地域で暮らす人々が生きる糧、命の源として耕作されてきた棚田だからだ。現在、この棚田は市役所の管轄下におかれ、景観保全を目的として管理されている。現代を生きる僕らは、いつからか、何かを履き違えてきてしまったのだと思う。


棚田を後にして、熊野地鶏が食べられるという温泉宿で昼ご飯。熊野地鶏の料理と、雉料理を楽しんでいたら、すでに時刻は午後の1時を過ぎていた。予定より早く着いてのんびりしてしまったのか、計画より遅れての再出発となる。一路、愛知県一宮市へ急いだ。



養蜂園にようやく辿り着いた頃には、日もすっかり傾いていた。車から出ると養蜂園のスタッフの方が僕らを出迎えた。遅くなった無礼を詫びながら部屋の中に通されると、園主は、僕らが遅れたことなど気に留める様子もなく、実に温和な笑顔を浮かべて出迎えくれた。

園主の話の数々は、どれもが興味深いものだったが、中でも養蜂を取り巻く環境は日々姿を変え、養蜂業は苦難を強いられている現況におかれているという話には、特に考えさせられた。



僕は以前から養蜂家に聞いてみたいことがあったので、園主の人柄に乗じて、ある質問をした。それは市販されている蜂蜜には、水飴が混ぜられているという噂の真偽についてだ。この質問に対して園主は、かなり以前にはそのような事実は確かにあったが、現在そのような不届きな養蜂家はいないと。但し、海外からの輸入蜂蜜については、消費者が誤解するのも仕方がない面があるとのことだ。というのは、輸入蜂蜜は通常ドラム缶のような大きな容器に入れられて船で運ばれてくるから、荷揚げした時には中身がカチカチに固まってしまう。そのままでは出荷できないため、固まった蜂蜜を温水に漬けて温めながら溶かすが、その時蜂蜜は容器の周囲から溶けるために、中心部が溶ける頃には蜂蜜の成分が壊れ、融点が高くなってしまうことがある。そのように融点が高くなった蜂蜜は、水や唾液といった水分と馴染みづらいために、ざらざらとした食感や舌触りの悪さ、また溶けにくさがどうしても生じてしまう。そのような蜂蜜が消費者に口に入るために、水飴を混ぜているという噂が立つのではないか、と園主はご自身の見解を述べられた。確かに、輸入蜂蜜が溶けにくいことについては幾度か僕自身が経験していたので、僕はこの話にすっかり合点がいき、噂の真相がようやく分かったのだった。



その話に続いて園主は、養蜂の方法について説明された。現在の養蜂には、野山に巣箱を仕掛けて蜜蜂は放つ方法と、市街地などの限定された場所に巣箱を仕掛ける方法の二つがある。現在、後者の方法をとる養蜂家は、蜂の糞や死骸などで汚されるとして近隣から役所に苦情が入ってしまい、巣箱を自由に設置できない苦境に立たされているという。周囲に蜜が採れる木々や花々が沢山あるにも関わらず、養蜂と採蜜が出来る環境が整わないことが問題となっていると話された。


僕は、地元食材のPRや地域環境保全のPRの一環としてなされている、銀座や都内各所の養蜂について、またそこで採蜜された蜂蜜が持て囃されて、ある種の流行さえ生み出していることについて話を向けると、名古屋市役所の屋上でも同じような取り組みをしたがいつの間にか沙汰止みとなり、今ではそうした活動はなくなってしまったとのことだった。



園主の話は続き、日本ミツバチと西洋ミツバチの違いについても説明して頂いたが、僕はその時には開いた口が塞がらないような状態にまでなっていた。あまりにも僕らが知り得た情報と、事実が全く異なることに驚いたのだ。実しやかに事実でないことが流布されるのは一体何故なのだろうと思いつつ、その話に耳を傾けていた。

 

* * *



生産現場に実際に足を運ぶと、多くの労苦を強いられている生産現場とは一線を画した世界で僕らが生活していることに、改めて気付かされる。僕らは「美味しい」とよく口にするが、それはそのものの味について言及しているのか、それともその背後にある自然環境や携わる人々の思いや努力や愛といったものをも含めて口にしているのか、一体どっちなのだろうと思わずにはいられない。



以前徳島県に、実生の酢橘を探し行った時のことを思い出す。山本さんという実直な方だったが、僕はあまりに美味しい酢橘だったから「来年この酢橘を送ってください。是非とも使ってみたいので」と、何気なくお願いした時のことだ。こんな事を彼に言われた。

「この酢橘は生まれて400年も経つ酢橘の木だ。僕が幼いころは、この木に登って良く遊んだよ。でもね、400年の間には色々な事があるんだよ。君たちだって、便秘になることだってあるだろう。風邪だってひくこともある。400年も生きていれば、たまの一年実を付けない年があっても、おかしくはないだろう。そんな風に自然の流れを人間が決めたりすることは出来ないんだ。もし酢橘が欲しければ、この木に聞いてみろ」と。



確かに言われてみればその通りで、返す言葉もなかった。季節や旬というものもあるが、その年の出来具合は色々だ。来年どうなるということを誰も約束することは出来ない。酢橘のことを思い出し、味というものは、年毎に違うし、例え同じ木であってもその年、その季節でまったく違う味わいがあるのだと、僕はふと思った。


養蜂園を出ると、すっかりと夜の帳が下りていた。僕らは名古屋方面に車を走らせ、東名高速道路を目指した。車中の面々はうつらうつらと夢の中へと誘われ、僕は真っ直ぐに続くアスファルト道路を見つめてひたすら車を走らせた。暗闇に照らされる道路を見つめる内に、やるせない気分でいっぱいになる。



今まで僕はどこか自慢気に「旨いだろうこの料理」といった態度をとっていた。しかも、一から十まで全部僕自身が創造したかのように、はしゃいでもいた。

それは本当に間違っている。



生産者は自然と真摯に向き合い、それは来る日も来る日も、途方もない作業を繰り返してきたのだ。ただ皆に美味しいと喜んでもらえる食物を作ろうと、そして皆の手へと届けようと、そう思い、そう願い続け、様々な人々を通して今まで継承され続けてきたからこそ、僕らが手にすることが出来るのだ。

僕ら料理人は、こうした本質的な問題について、きちんと理解し、もっと知る必要がある。知ることによって、ようやく初めて料理をする土台が築かれるのだと、僕はそう思う。気が付くと僕らはあくせくと働いていて、時間ばかりが過ぎてゆく。ゆったりとした時間の流れの中に身をおいて、今僕らの目の前にある「味」に興味をもつからこそ、美味しい料理を作ることが出来るのだ。



そんな事を考えつつ、今回の行程を思い返してみると、計画はすっかり計画通りには進まなかったことに気付く。酢橘の木だって色々だしと一人苦笑しつつ、横浜に到着した。

時計を見ると、もう日付も変わろうとする頃だった。