HANZOYA

ご予約・お問い合わせ 045-434-8989 毎週月曜日・火曜日定休
最新情報は、当社HPカレンダーをご確認ください

COLUMN食旅紀行

滋賀県安曇川の赤い果実

 

目がまわる忙しさだったゴールデンウィークが明け、ようやく一息ついたところで、地域の特産物の逸品を探しだすという「地域の宝探しのプロジェクト」に関わることになった。僕はそれまで食材というキーワードを通して、地域の様々なことについて詳しく調べたことがなかったので、このプロジェクトに関わったことは僕にとって非常に有意義なものとなった。

 

各地域には、それぞれに地域産業から特産物、また食文化も含めて古くから伝わる郷土の文化が残っている。そのままの形で継承されているものもあるが、時代に合わせて形や形式を変えながら伝わるものもある。もちろん、姿を消してしまったものもある。

 

その一方で、継承される文化が少ない地域で、郷土の特色を出して新しく生み出された文化もある。今回の調査を進めるうちに、そうした地域が思いの外多いことにも、改めて気付かされた。それは、本当に驚く程に多かったのだ。

 

食文化は様々な歴史的な出来事を通して、様々に伝播される。時に移植され、また持ち出されて、他所へと伝わる。伝えられた食文化は、地域それぞれに独自の発展を遂げて、そして今に伝わる。

 

* * *

 

例えば、「小豆島のオリーブオイル」。

明治末期に、海産物の有効利用を図ろうと魚のオイル漬けに必要なオリーブオイルを自給することを目的に、国策としてヨーロッパから移植したのが事の始まりだ。日露戦争に勝利したことで日本の漁場は広がり、そこで捕れる鰯等の魚を長期保存するためのものだった。試験的に移植した小豆島、三重、鹿児島のうち、小豆島に植えられたオリーブだけが順調に育って、実をつけたのだ。

その後、小豆島ではオリーブオイルを搾油するべく様々に試行錯誤が繰り返され、増産された。現在では、国産オリーブオイルの産地、伝来の地としてよく知られるまでになった。この時移植されたオリーブは、小豆島でその子孫を増やして、毎年実を結び、郷土の宝として大切にされている。

 

小豆島には、まだ他にも食の宝がある。塩、醤油、そして佃煮だ。

太閤秀吉が大阪城を築城する際、良質な石がないものかと探していた時、この小豆島の石山の質が良いということが伝わったことが、そもそもの始まりだった。採石運搬に多くの人々が和歌山県から送り込まれたが、その中に塩職人がいたことがきっかけとなって、この地で塩作りが盛んになった。そして、この塩が大変良質なことから、今度は醤油造りが盛んとなり、最盛期には島内に100軒程の醤油屋が立ち並ぶまでになった。しかし江戸期の「贅沢はご法度」令により、醤油は一部の特権層にだけしか販売されることが出来なくなってしまい、そこで島の知恵者が、芋蔓を醤油で炒ったものならば醤油ではないからと、巷で売られたのが「佃煮」だった。

このように地域の食文化は、様々な歴史的な出来事を発端にして、様々な社会的な事情に影響を受けながら、その地の人々に大切に育てられ、継承されてきたのだ。

 

小豆島の例とは異なるが、偶然の発見によって新たに宝となった食文化遺産もある。

 

それは静岡県「由比の桜えび」だ。

この海老の生態は、他の海老とは異なる。彼らは、河口付近の海水と淡水が交じり合う汽水域で、遠浅でしかも突然深くなるような場所に生息する。生息域がかなり限定されているこの海老は、夜間は水深20から30m辺りに出てきて河川から流れ込むプランクトンを食べる。しかし、昼間はさっさと水深200から300m程のところまで潜ってしまう夜行性の海老なのだ。そのためにこの桜えびは長い間人の目に触れず、発見されることがなかった。

 

明治中期に由比の漁師の網が深く潜り、偶々大量の桜えびが捕れたことから、由比の桜えびはようやく発見されたのだ。この明治中期以降、夜間の桜えび漁が始まったという。現在でも百数隻という規模ではあるものの、「由比の桜えび」として全国にその名はよく知られている。また、富士川河川敷の「桜えびの天日干し」も、有名な風物詩としてよく知られ、今もなお継がれている。

このようなごく限られた地域の特産の「宝」もある。

 

キウイフルーツといえば、ニュージーランド原産と思われがちだが、本来の原産地は中国である。同じアジアの日本にも、この原種の近縁種が今でも自生している。

ニュージーランドがこの果実の産地として有名になったのは、1900年頃に中国に訪れた旅行者が、その種子を自国に持ち帰ったことから始まった。新たな地に渡った原種は、現在流通していうる果実へと品種改良された。やがて生産量が安定し、輸出できるまでに生産高も増えていった。そこで海外への販促のために、それまでの名前を改め、ニュージーランドの国鳥である「キウイ」に似ていることから、「キウイフルーツ」と命名された。今では世界的によく知られた果物となったが、それにしても、ある地域の宝がやがて国を代表する宝となるというのは、本当に面白く、実に興味深い。

 

日本国内にも地域の宝である果実は豊富だ。例えば「夕張メロン」。

大正末期頃から品種改良が重ねられたこの果実は、戦争などの時代の波に翻弄されつつも、数々の苦難を乗り越えて、よく知られた有名ブランドになった。「夕張メロン」として実を結ぶまでには、どれだけの労苦と想いが費やされたことだろう。夕張は平成19年に市が財政破綻したことでも有名になってしまったが、メロンに関しては素晴らしい資産、宝だと思うのは、きっと僕だけではないはずだ。

 

* * *

 

ここからが今回の本題だ。

今回のプロジェクトで全国を飛び回るうちに、僕は面白い取り組みと出合うことができた。それは、滋賀県高島市(旧・安曇川町)で、「ボイズンベリー」を特産物に育てるという取り組みだった。

ボイズンベリーは、ニュージーランド原産の果実。日本ではまだ馴染みのない果実だが、市場には結構入っている。ただし冷凍果物として輸入されるためによく知られていないのが、実情だ。

 

僕は現地視察に行くにあたって、まず京都へと向かった。京都へ立ち寄ったのは、市内で茶器類を商う友人と待ち合わせていたからだ。京都に着くと、彼と二人で滋賀県高島市へ向けて車を走らせた。車中では「近江商人・大阪商人・伊勢商人」についての話が盛り上がり過ぎてボイズンベリーのことをすっかり忘れ、道を間違える有様だったが、カーナビを頼りに、ようやくのこと目的地の高島市商工会議所へと辿り着いた。

 

商工会議所というと、農業とは関係がないという感じが僕にはしていたのだが、ボイズンベリーの取り組みを最初に言い出したのは、この商工会議所だった。

ボイズンベリーについて調べ始めた当初は、ボイズンベリーの栽培地域だけは特定出来たのだが、詳細についてはわからなかった。それで商工会議所にでも問い合わせてみるかと思い付いた僕は、早速電話をかけてみたのだ。

 

早速かけてみると、電話口の相手は「ああ、ボイズンベリーのことね」と言われて、それだったら会頭さんに代わるからそのまま待っていてくれと続けた。僕は「会頭」っていう言葉に恐れをなして、背筋を伸ばして緊張しながら待っていると、やがて電話口からは落ち着いた声が耳に届き、その取り組みのことを教えて頂いたのだった。

 

そんなやり取りをしたことを、商工会議所の前で下車しようとした寸前に思い出した僕は、急に不安になってしまった。僕は、会長や代表、先生といった肩書を聞いただけで、落ち着かなくなる性分だからだ。やはり会頭という役職につかれている方に面会するのであれば、僕らも相応の格好というものがあるはずと…。僕は友人に電話から察した相手のことを説明して、互いの服装を確認し合った。これでよしと、覚悟を決めて建物へと入るや、「失礼致します!」と、僕は威勢よく挨拶した。勇んで上げたはずのその声はすっかり裏返ってしまい、その間抜けた声に傍らの友人がクスクスと笑い始める。僕の緊張の糸はその時プチンと切れて、もうどうにでもなれと、ようやく肩の力が抜けたのだった。今一度「失礼致します」ときっぱりと言ってから、窓口の方に会頭と面談の旨を伝えて、無事僕らは応接室へと通されたのだった。

先程の緊張感も嘘のように、僕らはその応接室の立派でなソファーに身体を沈め、「やっぱり違うね。こういった所の応接室は」などと呑気に寛いでいた。その時、バツ悪く会頭が入室された。「楽しそうですね」という挨拶から始めた会頭は、ボイズンベリーの取り組みについて、僕らに話し始めた。

 

会頭の話を要約する以下のようになる。

最近になって安曇川町は吸収合併以後「高島市」となったが、それによって我々が親しんできた「安曇川」という郷土を示す地名が失われてしまった。更に、これまで利用されてきた国道上にバイパスが通る計画が実施される予定になっているため、このバイパスの完成後は、他県から来る旅行者や来訪者がこの地域を素通りしてしまう可能性が極めて高い。これらの理由から、この地域の産業が大きな打撃を受ける恐れがあり、その懸念がこの町の地場産業に関わる人々の間に広がりつつある。そこで高島市商工会議所では、バイパスが完成する前の今のうちに、何かしらの手を打つ必要があるということで、数年前から農業事業も含めて新たな事業を様々に取り組み始めた。

僕が問い合わせた「ボイズンベリー」もその一環で、「安曇川」の新たな特産物を作り、地場産業の活性化を促すのを目的としていた。新規農産物の選定には、様々な候補から検討されたが、その結果、ニュージーランド産「ボイズンベリー」に決定した。決定後は現地に視察団を派遣し、現地での視察、調査に加えて、視察団は滋賀県での育成の見込について、当地の研究機関に依頼した。その結果、滋賀県内での移植、育成は可能であると報告され、ここ高島市では3年前に移植、育成され、研究開発が進められてきた。現在では、地元の菓子店へ出荷できる程にまでに生産量が増えたとのことだ。

 

そして、ここまで到達するまでには、幾つもの困難が前途に立ち塞がり、その一つ一つを乗り越えてきたことついても、会頭は静かに語られたのだった。

 

僕らは早速、栽培されている畑へ案内された。百聞は一見にしかずで、やはり実際に僕自身の目で確かめると、初めて知り得ることや発見が多い。今回の実地体験はいつも以上に驚くべきものだったのだ。

というのも、このボイズンベリーは、物凄い様相をしている植物なのだ。来る者を寄せ付けぬように無数の鋭い刺を生やしながら、伸びては巻き付く欧州の古城の壁を覆い尽くす、イバラのようだ。果実を採ろうとすれば、その鋭い刺でうっかりすると怪我をするから、実際にも僕のイメージ通り。

しかし、このベリーを口にふくめば、豊かな香りが口いっぱいに広がって、その苦労も一瞬の内に忘れてしまう。とは言っても、怪我を覚悟で手を伸ばさないと、宝石のような赤紫色の果実を手にすることは出来ない。何と表現したらいいのだろうか。僕にとってこの果実は「魔女の果実」といったところ…か。

ところでこの魔女の果実、否、ボイズンベリーは、この地で新たな名前が冠された。「安曇川」という地名に郷土愛を込めて、そして後々までその名が残るように「アドベリー(安曇ベリー)」と命名されたのだ。僕は魔女の果実と勝手な名付けをしてしまったが、呑気すぎて話にならない。

 

僕はこうして新しい宝「アドベリー」と出合った。甘酸っぱく、芳醇な香りをもつアドベリーは、料理でも、デザートでも大活躍する。収穫期は6月から7月の頃。今ではすっかりアドベリーの爽やかな酸味と甘味が、夏の始まりを告げてくれる。

 

* * *

 

このプロジェクトを通じて僕が考えたこと。

それは、僕らが常日頃、当たり前のように使い、また口にしている全てのものは、一朝一夕で出来上がったものではないということだ。

あらゆるものは、関わる人々が、自然環境や社会的環境の中で、それぞれに奮闘して築き上げたものなのだ。時代の波に翻弄され、時代に応じて変容され、そして受け継がれつつ、守られてきたのだ。全てのものには、人々が生き抜く為の大切で尊い知恵と愛情が詰まっているはずだ。

 

僕は、先人たちに恥じぬように、あらゆることに感謝し、先人たちの恩恵に浴するだけではなく、精一杯に美味しい料理を作り、そして本当の意味で楽しい暮らしを営みたいと願っている。