HANZOYA

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COLUMN食旅紀行

お褒めの言葉とお叱りの言葉

 

料理人になってもう24年にもなる。しかし、僕にはこれといった得意料理や看板料理がある訳ではない。

得意とする料理こそもたないできたが、でもこの生業を続けている内に、どんどんと惹きつけられ、好きになったことがある。それは食材と向き合い、よく見聞きすることだ。それだけでは飽きたらず、生産地へと直接足を運び、生産者らと語り合い、時に彼らの手伝いをする。こういうことが、本当に大好きになった。だから、もし僕の得意料理は何かと問われれば、食材と関わった僕の経験を通じて実感したことを、表現した料理ということになるのだろう。

 

しかし、以前の僕はちょっと違っていた。客側と僕との間には、料理に対しての微妙な温度差があったのだ。それは、どの料理人もが持ちえる厄介な感覚かもしれない。以前の僕は、客側の「味わうという行為」よりも、僕自身の料理に対する気持ち方が先走っていた。ついつい、「僕の料理とはこうだ」とか、「是非ともこのように食べてもらいたい」といった、煩わしい気持ちを抱えて僕は料理と向き合っていたのだ。

 

* * *

 

そうした僕の厄介な心境がもたらした幾つかのほろ苦い思い出がある。

 

ある時から毎年来店されるようになった方がいた。彼はいつも奥様を伴われて、二人で来店されていた。初めての来店時、彼は「糖尿病だが、鴨肉だけはしっかりとした料理にして下さい」とリクエストされた。

厨房で料理を仕切っていた僕は、給仕係が言付けられた要望に応えて、前菜、魚料理、デザートは持病に配慮したものを用意した。そしてメインはもちろん鴨肉の一皿。僕は、鴨肉からしっかりと出汁をとり、さらにアルコールもたっぷりと使ったソースを添えた。彼はこの一皿が気に入ったのか、以後年に二回程来店されるようになったが、いつもその鴨料理を注文された。

 

ある年、彼の奥様と息女の二人だけで来店されたことがあった。いつもの鴨肉の料理をメインに据えたコースを注文された。帰り際に、「これまで本当にお世話になりました。主人はここで鴨料理を食べることを楽しみにしていたのですが、前回が最後となってしまいました。この度は娘が、父が楽しんでいたその料理を是非味わいたいというので連れて参りました」と、彼女は給仕係に言葉を残していった。

 

この伝言を給仕係から聞いた時、僕の心中は正直穏やかではいられなかった。というのも、僕は彼女がいった彼の最後の晩餐時、心からその料理に向き合っていたとは自信をもって言えないからだった。もちろん、料理に手を抜いたということではない。料理人としての恥じないものを出したつもりだ。

 

しかし、この伝言は僕を次第に打ちのめしていった。彼が最後に楽しんだという鴨料理を思い出した僕は、様々な思いが錯綜し、そして心が散り散りとなった。その時初めて、料理を食べる側の客に対して、僕は真剣に向き合ってこなかったことに、その時なって気付いたのだった。料理をする以前の心構えが、全く出来ていなかったと僕自身を責めた。故人となってしまったその方に、お詫びのしようがないのは言うまでもなかった。それ以来、僕は料理を作ることが怖くなってしまった。

そして、「なぜ僕は料理を作るのか」という問いが、僕の頭の中で繰り返された。さらに、その答えを見出せない僕自身に嫌気がさしていった。僕は、この極めて単純な問いに対して何も答えられないことに、大きなショックを受けていた。

 

* * *

 

そんな状態のある昼時、ランチで来店されたお客様がテーブルにメッセージを残して帰られた。

「今日の料理を大変美味しく頂きましたが、一つ気になることがありましたので、メッセージを残します。カルパッチョにお使いなられていた真鯛ですが、養殖の鯛を使っているようですね。養殖の鯛は脂が臭く、カルパッチョのように生で使う料理には合いませんから、今後はお使いになられない方がお店の為かと存じます」と。

 

その方の指摘した鯛は、愛媛県八幡浜沖で釣り上げられた天然の真鯛だった。綺麗な鱗がびっしりと表面を覆い、身は尾までふっくらと充実した立派な鯛だった。それはまさに僕好みの鯛で、その日の仕入れ中でも特に自信をもっていた魚だった。

伝言を受け取った僕は、「わかっていないな、知らないって怖いな」などと、厨房の中でブツブツと文句を言いつつも、「まあわからない人に言ったところで仕方ない」と僕自身に無理やりケリをつけてその日を終えた。

 

ケリをつけたはずだった僕の心だったが、落ち着くことはなかった。僕はその人物に無性に腹が立っていた。なぜメッセージを受け取った時に、客の前に出て行って「この魚を是非見て下さい。これは天然の鯛ですよ」と言わなかったのかと悔やまれた。そうすればその人物だって、きっとそれは思い違いをして失礼したということで、僕の心は落ち着いたはずなのにと。こんな問答を頭の中でグルグルと繰り返した。

 

そんな悶々とした日々を過ごしていたある時、糖尿病を患われていたあの方のことを唐突に思い出した。そしてまた僕は「なぜ料理を作るのか」という根源的な問い打ちのめされるのだった。

 「一体僕は何をしているのだろう、作っていても面白くないし、役には立たないし、その意味だって僕はわからないじゃないか」と思い始めたら、面倒くさくなって一足飛びに「もういいやいっそのこと辞めてしまえ」と決心した。決意が固まると、退職願をさっさと書き始めた。

 

しかしいざ書き始めてみると、悔しさが込み上げてくる。もう僕は悔しさで身体一杯になり、悔しさの塊にさえなっていった。そんな風にまでなってみると、ふと僕は、一体この悔しさって何だろうと思い始めた。結局退職願を出すことなく、僕はその日の仕事を終え、悶々した身体を引きずって家に戻った。もちろん眠りにつくこともなく、そのまま翌朝仕事場に行った。その日も退職願を出すこともなく、堂々巡りの頭を抱えたまま立ち働いて、そしてまた帰宅した。

 

そんな日夜を繰り返したある時、僕の身体も限界が来たのか、気を失うように眠りについた。目覚めた時は、すでに昼も過ぎた頃だった。急いで駆けつけ、詫びを入れた。辛うじて仕事場に入ったものの、僕の心と身体は散り散りだった。

 

この頃になると、僕のそうした問いは、もっと根源的な問題にまで言及するようになっていた。料理を作る理由以前に「僕は何故この世に生まれ落ちたのか」と。そのようなことにまで考えが及んでくると、悲観的にしか物事を眺められず、何をやっても全く面白くなかった。

 

* * *

 

しかし、そんな僕の前に、ある時神様が降りてきた。いや、神の存在を想わせるようなことが起きたのだ。そして僕は、この長い苦痛にようやく終止符を打ったのだった。

 

ある日、披露宴を希望された方が、こんな要望をされた。

新婦の父は腎臓患っていて厳しい食事制限をしている。しかし娘の晴れ舞台の披露宴では、是非最高の料理を岳父に食べさせてあげたいと。

その時の僕は、もちろん管理栄養士の資格を持っているはずもなく、腎臓病に関する詳しい知識もなかった。正直に言えば、万が一僕の作る料理によって何かが起こったらどうしようかという恐れや、何かあったら僕自身の責任問題では済まないといった恐れでいっぱいだった。

 

しかし何故だか僕は、やってみようという心持ちになったのだ。父君の主治医から指示を貰い、また他の病院の管理栄養士の方々から様々な情報を集めた。厨房の環境も万事整えて、僕は、生涯決して忘れることできないその日を迎えた。

 

着席されている父君の様子を、僕は家具の影から窺い見ては、厨房に引き返した。そんなことを繰り返して、ようやく披露宴が始まった。前菜の一皿から、最後のデザートまで、順々に彼のテーブルに料理が運ばれ、そして下げられた。僕は厨房に戻ってくる皿を一々覗きこんでは安堵の溜息をついた。父君の様子を、サービス係のスタッフらがうんざりする程に五月蝿く聞きまわっていた。

 

そんな僕に、父君と新婦から直接お礼を述べたいという声が掛かった。僕という人間は、態度とは裏腹に繊細で肝っ玉が小さい。恐る恐るフロアーに出てみると、父君から先に握手を求められた。彼は僕の手のひらをぎゅっと握りしめながら「娘の結婚式で娘に恥ずかしい思いをさせることなく、本当に美味しい料理を久しぶりに堪能させて頂きました。本当にありがとう」と。そして傍らの新婦も「ここで披露宴を挙げられて本当に良かった。ありがとう」と、涙混じりの震え声で礼を僕に述べられるのだった。

僕は恐縮して、「とんでもない、こちらこそ本当にありがとうございました」顔さえも上げられぬままに、シドロモドロに答えるのが精一杯だった。

 

この披露宴がきっかけとなり、僕の人生は大きく変わっていった。

何故なら、ようやく僕は「何故料理を作り、何故生きるのか」についての答えを導き出すことが出来たからだ。

 

僕の答えは、「誰かの役に立つ人間になること」そして「自分以外の人たちのために、美味しい料理を準備できる料理人になること」という、たったそれだけのシンプルなものだった。

 

以来、前向きになった僕は、食材の本当の姿を、料理のあるべき姿を知ろうと心に決めた。全国津々浦々へと足を運び、そこで展開されている実際を直接見聞きし、食材に関わる人々ともっと交流しようと。そして現地に流れる風を肌で感じ、土地固有の文化や風土を探ろうと。

 

そして何よりも、現場で感じた「僕の感性」を通した、「僕の料理」を作り続けようと。僕が披露宴の一件から導き出した答えから、ようやく「僕の作るべき料理とは何か」ということを心底理解し、長いトンネルを抜け出たのだった。

 

食べ物は、美しくも愛おしい僕の恋人。人は、様々な知恵を授けてくれる先生。様々な叱咤激励が、僕の今を形作ってくれた。

さて、今度は何処へ行って、何を学び、どんな料理を作ろうか…。