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COLUMN食旅紀行

美味しいお料理は 美味しそうな鍋から作られる

 

美味しい料理を作るには、最良の食材を用いれば出来るというわけではない。用いる調理道具にも気を配る必要がある。

ところで、食材の一つ一つに個性があるように、調理道具にも個性が備わっている。大量生産される道具を十把一絡げに非難するつもりはないが、ベルトコンベアー式に生産される調理道具と、手作りで一つ一つ丁寧に作られたものでは、一見似ているようでも、その実は大きく異なる。

僕が日々料理する中で面白く感じているのは、手作りの道具とそうでないものを、料理する前に知っていて用いるのと、そうでないのとでは、料理の出来具合も変わってくることだ。それは、ただ単に手作りのものを使ったかどうかの問題ではない。僕が言いたいのは、手作りされた調理器具一つ一つに、料理人が「思いを馳せるという心」もって、料理するのとしないとでは、結果が大きく変わってくるということだ。なぜなら、食材も道具も一瞬にして出来上がったものではないし、またそうした道具には作り手の多大な苦心と「思い」が込められているはずだから。だから、僕は、まず道具や食材に思い馳せながら料理に臨むことが、何よりも尊く大切なことだと思っている。

 

例えば、栽培の舞茸と天然の舞茸。

栽培の舞茸を、ただ単に食材の一つとして料理すれば、出来上がるものは、ただのキノコを用いた料理にしかならない。そこには、舞茸に対する「思いを馳せるという心」がないからだ。出来上がる料理は、何の変哲もないキノコ料理、ただのキノコが入っている料理にしかならない。

 

でもここで「思いを馳せるという心」をもって舞茸を改めて見直してみると、例え栽培されたものでも愛おしくなってくるはずだ。なぜなら、僕の手の中に収まるまでの間には、様々なドラマがあるからだ。菌床栽培にしても、原木栽培にしても、材料調達から栽培環境の維持等など、そこには関わる人々の愛情が込められている。

 

それが天然の舞茸だったら、そこにもっと大変な労苦が加わる。

舞茸は毎年確実に生育するわけではない。環境の変化などによって育成状況が変わり、まるっきり収穫できないこともある。また大抵の舞茸は、急斜面にせり出ているミズナラの大木の根元に寄生している。だから採り手は、時に徒労に終わってしまうことがあるし、あっても収穫するにはいつでも危険がついてまわる。また、希少な舞茸を皆が狙うことになるから、当然熾烈な争奪戦になる。去年収穫したところに辿り着いても、もうすでに誰かに採られた後だったということはよくあることだ。その上、無事に見つけても、まだ採るには小さい幼菌だったということもある。採るタイミングが上手く合えばいいが、そこは生命あるもの。いつも首尾よく採れるわけではない。3日で育ってしまうという舞茸は、発見するタイミングが本当に難しい。それでは後日にと、再度出直してみても、その時には他の手に落ちていたということも万度だ。

そんな舞茸だからこそ、最高の状態で発見するというのは、実に奇跡的なこと。だからこそ、見つけると「舞う程に嬉しい茸」ということで、「舞茸」という名前が付いている。

 

舞茸の話で少々熱くなってしまったが、この舞茸の話こそが、僕は美味しさの全てだと考えている。だからこそ、料理をするには、まず食材や道具の裏にある、一つ一つの物語を知ることから始めなければ、僕の考える美味しい料理にはならない。

 

* * *

 

しかし、料理とはなんて奥が深いのだろう。食材や調理道具の物語に耳を傾ける度に、僕はどんどんと料理が好きになる。包丁一本にも、鍋一つにも、まな板一枚にも、独自の個性、味わいがある。

地金を打ち叩いて丁寧に仕上げられた雪平鍋。鉄を打ち出して作られた北京鍋。和食職人や中華職人にとっては、それぞれに肌身離せない程に、愛おしくて大事なもののはずだ。それらは断じて、ただの道具ではない。道具自体が、食材に味を含ませ、味を引き出す力を秘めいているからだ。

 

フレンチの料理人である僕にとって大事な調理道具は、やはり鍋だ。美味しいオーラが漂う銅鍋、時に神が宿っているようにさえ感じさせる厚手のフライパン、そして滋味豊かな香のする鋳物のルクルーゼ等など。オレンジ色のルクルーゼの蓋をパッと開ける瞬間、僕は言い尽くせない程の幸せな気持ちに包まれる。

 

一仕事終えると、必ず僕は大事な鍋たちを磨く。そしてとことん鍋を磨いていくと、鍋もそれに応えて光を放って輝き出す。一つ一つ、鍋を丁寧に磨き終えると、僕はそれをずらりとテーブルに並べる。その日最後の楽しみは、並んだ鍋をじっくりと眺めること。今度はどんな料理を作ろうかと、鍋を前にして、あれこれと想像するのが堪らなく好きなのだ。それに夢中になって、日付が変わってしまうことは万度だ。時々度が過ぎて寝不足になってしまう。

 

* * *

 

そういえば、つい最近京都でとても素敵な銅鍋を手に入れた。京都で扱われている鍋と言えば、つい和食専門のものばかりと思い込んでいたが、意外なことに洋食向けの鍋も扱われていた。

僕が買い求めた店は、調理道具、特に鍋を専門にする老舗店。手に入れた鍋は、店に陳列されていたものではない。裏の倉庫で眠っていたものを、僕自身が叩き起こしたものばかりだ。

というのは、僕は何かを見つけに店に入ると、陳列棚以外の品物を漁る癖がある。今回も、年配の女将に無理を言った。僕のこの買い物の仕方は大抵功を奏して、お気に入りの逸品を手にする。老舗店は特にそうだが、店の倉庫や納戸には、必ずといっていい程、良い品物が眠っている。

女将を困らせつつ、今回も僕はずんずんと納戸に押し入った。その甲斐あって、自分でも驚く程の掘り出し物を発見した。オーバルの大きな蓋つきの銅鍋と、アラジンの魔法のランプのような壺状の銅鍋。あとは、縁が大きめに作られたパエリア用の銅鍋だ。

 

どれも店主の手による鍋ばかりで、以前に遊び心が高じて作った鍋だという。しかも、この鍋作りについつい主は夢中になり過ぎて、翌日に熱を出して仕事にならなくなったという代物だった。そんな話を耳にすれば、余計に譲ってもらいたくなるというのが人の性。「お幾らならば」と切り出してみると、店主は「値の付けようがない」と脈があるようなないような、そんな嬉しくも困ったような返事をするばかり。しかし、ここで引き下がってはなるまいと、僕は何度も譲ってほしいと詰め寄って、ようやく手に入れたのだった。

 

横浜の厨房に持ち帰り、納戸の中で長い間眠っていた鍋たちを、僕は心を込めて磨き上げた。店主が丹精込めて仕上げた逸品。その鍋を使って僕は、早速幾つか料理を拵えた。料理は見るからに美味しそうな顔をして、僕もその出来栄えに十分に満足した。

 

そういえば、京都の逸品で僕が気に入っているものが、他にもある。それは、京都の市原さんの手によって作られた箸だ。この箸を僕はもっぱら盛り付けする時に使っている。その箸は、先端が実に繊細で、全体的に華奢な作りになっている。だから、僕が思い描いた通りの盛り付けが出来るのだ。この箸には、作り手の細やかな精神が宿っているのか、盛り付けに用いると、ピンと筋の通った清々しさが料理に生まれ、気品すら漂うのだ。やはり、箸一つといえども侮れない。

 

食材や道具と向き合い、彼らの物語を聞き、僕は料理を通してその物語を続ける。多くのものや人々と接し、様々な思いを感じながら、僕は日々料理をする。それが出来ることは、なんて素晴らしいことだろう。本当になんて恵まれているのだろうと僕は思わずにはいられない。とても素敵で、贅沢なこと。だからその贅沢を、僕は精一杯楽しんでいる。

 

僕の前に並んだ鍋たち。いつでも僕に美味しそうな顔をして微笑む。

さあ、今日も料理しよう!